11月のあいさつ
- qnunun
- 2022年10月31日
- 読了時間: 4分

前に豚平焼きを作ったとき、青のりを買った。その時は何も思わなかったのだが、豚平焼きを食べている最中に、「青のりって使い道ないな」と思った。で、なんとなく元を取るために豚平焼きを何回か連続して作り、その度にソースとマヨネーズの上に何度も青のりを振りかけのだが、それを美味しいと感じるのにも限度があり、飽きてきた時にふと「ちくわの磯辺揚げがあるやん!」と思った。
字面の通り「あるやん!」と、びっくりマークがついていた。というのも家で、ちくわの磯辺揚げを食べることができる。当たり前のことをもう一度反芻したら、とても特別なことに思えてきたのだ。なぜかというと自分は潜在的に、めちゃくちゃにちくわの磯辺揚げが好きだったのだ、
そんなに好きだったのかと、一旦冷静になった。そこで、もう一度鑑みた。例えば定食屋で、ちくわの磯辺揚げを見かけたら。居酒屋で、気にも留めなかったのに、ふとした時にちくわの磯辺揚げがあると気づいたら。実家に帰った時「適当に家にある材料で作った」と言われつつ、出された食事に、ちくわの磯辺揚げがあったなら。
そういうシーンを反復するにつれて、その都度、自分が内心「お、ラッキー」と思っていることに、今更だが気づいたのだった。
というわけで、潜在的にめっちゃ好きだったちくわの磯辺揚げを作りました。このタイミングでちょうど、青のりを全部使い切ることができました。よかった。それと豚汁。毎度思うのだが、味噌汁に豚肉が入っただけやのに、なんでこんな美味しいんやろ。あとはしめじとベーコンの炊き込みご飯と、スーパーで買ったサラダです。#写真撮るのドチャグソ下手糞マンのお料理日記
写真の後ろの方にちょっぴり映っているのだが、私、焼きのりもめちゃくちゃに好きなんです。あの乾いた感じと、あったかご飯に比べるとひんやりとした温度感。これまで「焼きのり好きかも」と気づかずにいたのですが、ある時、きっかけは忘れたけれど「潜在的に焼きのりめっちゃ好きやん自分!」と認識した際、頭の中で金具がカチャッとハマる音がしました。
潜在的に、という話。この前、会社の食堂でカレーを頼んだら、急にフォークで食べたくなった。通常、カレーといえばスプーンだと自分は思っているし、だから、これまでスプーンを使って食べてきたけれど、ふと「なぜスプーンを当たり前と思ってきたのか?」と思い、その後には「フォークで食べた方が、さらに美味しいのに?」と反語調で、つまり、すでに決定事項として認めていた。
それで試しにフォークで食べてみたら、なぜかスプーンよりフォークで食べた方がしっくりくるし、理由はわからないのだが、「スプーンよりフォークで食べた方が美味しい!」とめちゃくちゃに思った。強いていうなら、スプーンは丸くて大きくて、あと食堂のは分厚さもあり、口に入れるのに相応しくないと潜在的に思っていたような。
いっぽうフォークは、スプーンよりひんやりしている。細くて鋭いという、イメージも大いにあるのかしら。カレーとの温度の違いが際立って美味しいのかも。いつか何かの試しでフォークで食べて、覚えていたことが、潜在的にずっと感覚として残っており、突然立ち現れたのかも。
海苔にしろフォークにしろ、食べ物の温度感を気にしている、という話になるのかも。いや、実際そうなのだった。というのが、私はほかほかご飯より、ちょっと冷めたくらいのご飯が好きだ。それを温かい主食と一緒に食べるのが好きで、そのほうがお米の甘さを認めやすいし、温度の違いがアクセントにもなっているような、
というのをメールに書いて、(美食家としておなじみの)シャンプーハット・てつじ氏のラジオに(28歳当時に)送ったら「28歳でこの領域に達してるって、この子すごいやん!」と褒めてもらった。そのおかげで、てつじ氏のサイン入りグルメ本をもらったので、私の舌は正しいと思う。
最後もご飯の話。いや、パンの話。
天野月子の「箱舟」に《私の焼いた白いパンとミルク キリマンジャロの豆の香り》という詞がある。曲調も相まって、「あぁ、この食事は絶対美味しいんだろうな」と思う。
白いパンがどんなものなのか具体的には思いつかないのだが、パンのふんわりとした食感を思い浮かべている、
そして聴くたびに、いつもパンやコーヒーの、湯気が見えているような感覚になる。幻視する。思えば、この曲を初めて聴いた中学生の頃から、この湯気を見ている。見えない湯気をずっと、追いかけてきた。
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